コーディングを愛する人たちが、なぜコーディングから追い出されているのか
Les Orchardが最近の記事で指摘した観察が、頭から離れない。 LLMコーディングアシスタントが登場するまで、 ソフトウェアエンジニアたちのあいだの亀裂は見えなかった。
匠人気質の人たちと
とりあえず動けばいいという人たちが隣り合わせに座り、 同じ製品を作りながら、区別がつかなかった。 仕事の動機が見えなかったのは、過程が同一だったからだ。
道具が亀裂を作ったのではなかった。すでにあった亀裂を露わにしただけだ。
Orchard自身は最初の陣営だ。 七歳でBASICを学んだのはBASICが美しかったからではなく、 画面に何かを表示させたかったからだ。 彼にとってLLMコーディングアシスタントは、 いつも登り続けてきた梯子の次の段にすぎない。 パズルが消えたのではなく、より高い抽象水準へと移っただけだ。 彼も悲しみはするが、悲しんでいるのは仕事そのものではなく、 仕事を取り巻く生態系だ。
Nolan Lawsonの悲しみは違う。二月に上げた彼の文章を見てみよう。
コードを手で掴み、彫刻家のように捏ね上げる感触が恋しくなるだろう。 夜中の二時にデバッガーの前で格闘し、 ついにバグが降参するあの夜が恋しくなるだろう。 私たちが誇りに思ったものを、 真摯で正しく良いものを作り上げた感覚が恋しくなるだろう。
彼の文章は挽歌のように読め、その中の悲しみも本物だ。 彼が哀悼しているのは行為そのものだ。
二人とも思慮深く率直だが、同じ瞬間を見つめながら異なるものを感じている。 この非対称は真摯に受け止める必要がある。 「ただ適応すればいい」という論議が繰り返し見逃しているものを指しているからだ。
行為からの疎外
Marxは疎外された労働の次元を四つに分析した。 生産物からの分離、労働行為そのものからの分離、他者からの分離、 そして自身の人間的能力からの分離。 LLMコーディングアシスタントをめぐる論議において、核心は二番目だと言える。
Marxが言う「労働行為そのものからの分離」とはこういうことだ。 人間は他の動物と違い、作りたいものを頭の中でまず構想し、 物質世界をそのイメージに合わせて形作ることができる。 この意識的で意図的な創造能力こそ、Marxが人間の特性と見たものに最も近い。 労働が機械的なもの、強制されたもの、生きることではなく耐え忍ぶものになったとき、 その能力は実現されない。活動は依然として起きているが、 その人はもうそこに現存していない。
匠人技術を哀悼するソフトウェアエンジニアたちは、この描写に似ている。
彼らが大切にしていたのは成果物ではなかった。
何かを作る過程、熾烈に集中した時間、
システムを十分に理解してそれを再び形作ることができるという感覚。
Lawsonがまさにそう言う。
私がこれを作った
と言えるGitHubリポジトリ。
何かが作られた
ではなく、私が作ったということ。
これで、なぜ同じ道具に対する二人の反応があれほど違うのかも見えてくる。 Orchardははじめからコードを書く行為に自分を投資していなかった。 結果に投資した。LLMコーディングアシスタントが結果により速く到達させてくれるなら、 彼に失うものはない。一方Lawsonには、その行為の中に意味があった。 LLMコーディングアシスタントは成果物を迂回するのではなく、 彼が大切にしていた部分を迂回する。 Marxが区分した客観的疎外(感じようと感じまいと存在する条件)と主観的疎外(その喪失を経験すること)が、 この分裂にかなりよく重なる。 Orchardははじめから行為そのものに客観的に縛られていなかったから主観的にも疎外を感じないが、 Lawsonは両方だ。
よくある反応は、これが郷愁であるか、 あるいは新しい匠人技術が古いものを代替するだろうというものだ。 そうかもしれない。しかしその反応は実際の問いを避けていく。 コーディングを愛する人たちはなぜコーディングから追い出されているのか。 引き寄せられているのではなく、追い出されている。 誰も彼らが手でコードを書くことを止めない。市場がそれに不利益を与えているだけだ。
不利益を与えているのは何か
Marxは資本論でイギリスのラッダイト運動をこう評した。
労働者たちが機械そのものと資本による機械の使用とを区別し、 したがって物質的生産手段そのものではなく、 それの社会的搾取形態を攻撃することを学ぶまでには、時間と経験が必要だった。
機織り機を壊した労働者たちの憤怒は正当だった。方向が間違っていたにすぎない。 機織り機が労働時間を延ばしたのではなかった。資本がそうした。 機織り機が労働者を機械の付属物にしたのではなかった。資本がそうした。
LLMを使う同僚と生産性を比較され、 望まないのに仕事のためにLLMを使うと言うソフトウェアエンジニアたちにとって、 疎外の源泉はLLMではない。生計を特定の指標に縛りつけた構造だ。 その指標は今や、最も速く最も多くの産出物を出す人に有利に働く。 LLMコーディングアシスタントは梃子であり、市場が機制だ。
ただ、ここは一点だけ分けて考えたい。匠人技術と効率のあいだの緊張は、 資本主義を取り除いたからといって消えるものではない。 LLMがより速い産出物を出すという事実そのものは、 誰が報酬を受けようと受けまいと有効だ。 どんな共同体も、どんな方式で組織されようと、 結局その速度の差をどう扱うかという問いを避けることはできない。 資本主義はその問いに最も過酷な答えを与える。遅い方が生計を失う。 しかし問い自体は資本主義より長く生き残る。
私の状況が示すもの
私は専業でオープンソースプロジェクトのメンテナンスをしている。 収入は全面的に公的資金から得ている。 LLMコーディングアシスタントを使わなければ仕事を失うと言う雇用主はいない。 私の生産性を同僚と比較する四半期評価もない。
こうした条件のもとで、私とLLMコーディングアシスタントの関係は、 Lawsonが描写するものとはかなり異なる。面白いと思うコードは依然として手で書く。 したくない部分、 冗長なテストスキャフォールディングや何百回も書いたボイラープレートは、 モデルに渡す。この区分は自分で引いた線だ。 何かを表現する仕事と、ただ処理しなければならない仕事のあいだの区分線。
Marxが資本主義の外で機械にできることとして想像したものに近い。 反復労働から人を解放して、より創造的な活動のための時間を開くこと。 技術が違うのではなく、条件が違うのだ。
私の状況を解法として提示したいわけではない。 こうした状況は稀であり、依然として資本主義経済の中に存在する。 一時的な避難所にすぎず、脱出ではない。 ただ、同じ道具が一つの文脈では解放的に、 別の文脈では疎外的に感じられるということ、 その差異が道具ではなく社会的条件から来るということだけは確かだと思う。
悲しみが向かうべき場所
原因を知ったからといって苦痛が解消されるわけではない。 今まさにLLMコーディングアシスタントを使うよう追い立てられているソフトウェアエンジニアたちに、 構造分析は今日の午後を助けてくれない。
ただ、問いの立て方は少し変えられる。 Lawsonが描写する悲しみが実在するなら、 そしてその悲しみのより深い原因が技術そのものではなくそれを取り巻く関係にあるなら、 悲しみが向かうべき場所はLLMではない。 望まない道具を望まない条件で使うよう強いているものが何かという問題だ。
Lawson自身も、このあたりまでは来ている。
私は新しい世界を祝福しないが、抵抗もしない。 日が昇り日が沈み、私はその周りをどうしようもなく公転し、 私の抗議はそれを止めることができない。
率直だが、諦念が私たちに残された唯一の道ではないと信じたい。