不完全な世界で唯物論的に行動すること——生産手段としてのLLMと社会的関係

この文章は先月書いたF/OSSの唯物史観——LLMを拒絶するのではなく、取り戻すべきだの続編である。


Cory DoctorowはPluralistic六周年記念の記事で、自身の執筆・公開ワークフローを紹介した。毎日記事を投稿する前に、OllamaというオープンソースのLLMを誤字脱字チェックに使っているという。予想どおりの反発が来た。そして二日後、ドイツの技術批評家tanteが不完全な世界で倫理的に行動することActing ethically in an imperfect world︶という文章で応じた。

彼のタイトルを借りることが、この文章の出発点として適切だと思った。不完全な世界で倫理的に行動するとはどういうことか——それが彼の問いだ。私は同じ問いに、別の枠組みで答えたい。倫理学ではなく、唯物論で。

以前の文章で私は、ライセンシングを奪還の手段として前面に出しすぎた。ナイーブだという批判を受け、その批判にはある程度首肯する。ただ、私が言いたかったのは奪還という方向であって、奪還の処方箋ではなかった。この文章では、その方向をもう少し正確に整理してみたい。

二つの藁人形

tanteの文章には妥当な指摘がある。Doctorowは、LLM批判者を技術の創始者が悪人だから使うべきではないという純粋主義者として描いた——これは藁人形だ。実際の批判はまったく別のところにある。膨大な電力と水の消費、同意なきデータ収集、グローバル・サウスで行われる搾取的なラベリング労働、オープンソース・エコシステムを含む知識コモンズへの損害……Doctorowはこれらの批判をSam Altmanが気に入らないだけという感情的な反応に還元してしまった。tanteがその還元の誤りを指摘したのは正しい。

Blueskyの指摘も有効だ。Doctorowは中央集権化に対するイデオロギー的な理由からBlueskyへの参加を拒否している。自分の価値観に基づいて技術を拒否することは可能だと信じ、実践している。それなのに、他者がLLMを同じように拒否すると純粋主義と呼ぶ。この二重基準もtanteが正確に突いた。

ところが、tanteも同じ罠にはまっている。

彼は奪還という方向を批判しながら、奪還の手段を事実上一つに限定する。GPTに匹敵するフロンティア・モデルをゼロから作ること。それには数十億ドルが必要で、同じ環境コストが発生するから、奪還は現実的ではない——というわけだ。しかしDoctorowがLLM批判を単純化したように、tanteも奪還の経路を単純化した。ライセンスを通じた法的抵抗がある。規制によって国家に私有モデルの公開を強制させる方向もある。公共基盤モデルを共同で構築する方向もある。どの手段が実際に機能するかは政治的・社会的条件に依存しており、まだ開かれている。以前の文章でライセンシングに言及したのは、そのなかで最初に思いついた一例にすぎなかった。

機械とその資本主義的適用形態

Marxは『資本論』第一巻で、イギリスのラッダイト運動をこう評した。

労働者が機械そのものと機械の資本主義的利用とを区別し、したがって物質的生産手段そのものではなく、その社会的搾取形態を攻撃することを学ぶまでには、時間と経験が必要だった。

機織り機を打ち壊した労働者たちの怒りは正当だった。方向が間違っていただけだ。問題は機械ではなく、機械をめぐる資本主義的社会関係だった——機械が労働時間を短縮するどころか延長し、労働者を解放するどころか機械の付属物にしてしまうのは、機械の本性ではなく、機械を配置する方式の問題だった。Marxは彼らを嘲笑したのではなく、闘争が成熟していく過程を叙述したのだ。

この枠組みは今日のLLM論争でも有効だと思う。tanteのアプローチは本質的に倫理的だ。LLMという技術そのものを道徳的に評価し、その評価に基づいて使用の可否を決める。Doctorowのアプローチもさして違わない。評価の方向が逆なだけで、どちらも技術を道徳の対象として置く。

唯物論的アプローチは別の問いを立てる。この技術はどのような社会的関係のなかに置かれているか。誰が所有し、誰の労働で維持され、その剰余はどこへ流れるか。そしてその関係を変えることができるか。

AI賛否という構図そのものが、この問いを覆い隠す。大手AIベンダーに批判的でありながらLLMという技術の可能性に開かれていることが矛盾して見えるのは、技術とその資本主義的適用形態が同一のものだという前提があるからだ。しかしその前提は誤っている。

図書館と人間

LLMは図書館ではない。図書館が人を原典へとつなぐのに対して、LLMは原典なしに答えを出すという批判は一面では正しい。ただ、LLMは人間に近いと私は思う。

人間も生涯をかけて膨大な量のテキストとコードと画像を吸収する。著作権者にいちいち許諾を求めない。それを自分のものとして消化し、ときには単なる切り貼りにすぎないものを出し、ときには誰も思いつかなかったつながりを生み出す。

AnthropicのNicholas Carliniは最近、Claude Opus 4.6を使ってRustでCコンパイラをゼロから書く実験を行った。インターネット接続なし、クリーンルームで。結果は、Linux 6.9カーネルをx86、ARM、RISC-Vの三つのアーキテクチャでビルドし、PostgreSQL、FFmpeg、SQLite、Redisをコンパイルし、GCCトーチャーテストスイートを99%通過する十万行のコンパイラだった。私の知る限り、Rustで書かれたCコンパイラでそれに匹敵する成果を上げた先例はない。誰かの成果をそのまま再生産したとは言えない。

もちろん、LLMが常に創造的なわけでも、人間が常に創造的なわけでもない。この比喩はLLMを美化するためのものではない。LLMは本質的に再生産しかしないという前提の上に築かれた批判の根拠が揺らいでいる、ということだ。

すべての生成AIが同じではないことも、この枠組みでよりはっきりと見えてくる。LLMと画像生成モデルの違いは、単なる技術の違いではなく、どのような労働をどのような方式で代替するかの違いだ。画像生成モデルが特定の作家のスタイルで画像を生成するとき、それは原作者の市場を直接侵食する。機能の代替ではなく、存在の代替だ。その剰余がどこへ向かうかを見れば、Marxの言う労働の窮乏化︵Verelendung︶が画像生成の領域でより直接的に進行していることがわかる。同じ尺度をLLMにそのまま適用できるかどうかは、はるかに複雑な問いだ。

デフォルトの視点

最後に、個人的な話を一つしたい。

tanteの文章はウェブで公開されているが、主要なLLMベンダーのスクレイピングをブロックするよう設定されているようだ。朝鮮語が母語の私にとって、英語は第二言語だ。tanteの文章のように、論証のニュアンスと暗黙の前提が重要なテキストは、従来の機械翻訳では正確に読めない。論証が生きたまま伝わるには、LLM程度の性能が必要だ。私は結局、文章を手動でコピーしてLLMに渡して読んだ。

tanteは、LLMが著者とのつながりを断つと言った。検索エンジンは人を原典へ案内するが、LLMは原典を抽出して利用者を自分のループの中に閉じ込める、というのだ。まったくの誤りではない。しかし私の経験は、その図式が誰の視点から描かれたものかを示している。英語に堪能な読者にとって、LLMはつながりを断つ技術かもしれない。しかし英語が不得手な読者にとって、LLMはつながりを可能にする技術でもある。tanteがLLMをブロックした行為は、彼自身の論理からすれば一貫しているが、結果として英語に堪能な読者とそうでない読者の間の非対称を強化した。

これが単純なアイロニーではない理由は、この非対称が技術言説の全体にわたって作用しているからだ。誰の視点がデフォルトに設定されているか。どのような社会的関係のなかでそのデフォルトが作られたか。

唯物論的に行動するとは、そのデフォルトを当たり前のものとして受け入れないことから始まる。技術が良いか悪いかを問う前に、この技術が誰のために、誰の労働によって、誰の利益のために動いているかを問うことだ。そしてその問いは、技術を拒否する理由ではなく、取り戻す理由になる——私はいまもそう思っている。